西暦1350年にシャム(現在のタイ国)、アユタヤ王朝の都として築かれたアユタヤは、チャオプラヤ(メナム)川中流の沿岸にあり、東西約7km、南北約4km、四方を川に囲まれた島状の街だ。水運を利用し、近隣だけでなく中国、ペルシャ、遠くヨーロッパとも交易を広め、最盛期には東南アジア最大の都市へと発展した。
アユタヤの王は上座仏教を信奉し、都に数多くの寺院や宮殿を建立した。今日残っているそのほとんどは、都ができて150年の間に建てられたものだ。
35代にわたって続いたアユタヤ王朝も1767年、ビルマ(現ミャンマー)の軍勢によって滅亡した。この侵攻により廃虚となった遺跡群は悠久のときの流れを刻み、私が訪れた頃は、仏像の頭部は盗難され、雑草が生い茂るあまりにも痛々しい光景として眼前に広がっていた。
その16年後の1991年、ユネスコ世界文化遺産の登録をもって保護され、現在に至っている。
17世紀には日本との御朱印船貿易により、1500人が住む日本人町も形成されたらしいが、その跡形は何一つ残っていない。ただ、「日本人町跡」と「山田長政」という日本語で書かれた石碑か看板があったと思う。
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山田長政(やまだながまさ)については、中学時代の社会の教科書に出ていた記憶があるが、実は歴史的な史料はほとんど残っていない。
「山田長政」(山岡荘八)、「風雲児」(白石一郎)、「山田長政の密書」(中津文彦)などの多くの作品によれば、江戸時代の初め、長政は家業の紺屋を継がず、沼津藩主のかごかきをし、兵法を学ぶ無頼漢であった。23歳の時、地元の豪商の船に便乗して台湾に密航し、アユタヤに渡る。異国の風習に悩みながらも、多くの武功と知略によって、日本人町首領、さらには、武官の最高位の官職を得、最期は、王宮内の権力闘争の犠牲となって41歳で客死するという波乱万丈の生涯を送ったようだ。
「ほほ笑みの国」タイは、東南アジアで唯一、西欧列強の植民地とならず独立を守り通してきた柔らかな竹のような外交術を兼ね備えた国だ。私の好きな国のひとつで、現在でもその精神、政策は貫かれている。
多くの曲折を経た現在の日本とタイの関係はと言えば、1970〜80年代の反日運動などの試練を経て、ようやく成熟期、安定期を迎えている。バンコクから70キロ余りという地の利もあり、アユタヤにも多くの日本企業が進出している。
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