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五箇山合掌集落

ご か や ま がっ しょう しゅう ら く




茅で葺かれた屋根たちは、天に向かって合掌する 
(撮影 : 2001年7月20日)





急峻な山々を背に
天に向かって合掌する菅沼集落の大屋根

 富山県の南西部、奥飛騨の峰々の豊富な清水を集め、庄川の流れは深い渓谷を刻みながら砺波(となみ)平野をへて、はるか日本海へそそぐ。その庄川沿いにひっそりと佇む五箇山 (ごかやま) は、急峻な山々と深い谷が続く山峡の地である。

 五箇山とは、平村、上平村、利賀村の3村の地域の総称で、庄川沿いの5つの谷間、赤尾谷(あかおだに)、上梨谷(かみなしだに)、下梨谷(しもなしだに)、小谷(おたん)、利賀谷(とがだに)に集落があり、「五ヶ谷間」を音読して「ごかやま」と呼ぶようになったとされる。
 
 白川郷に比し、小規模ながら静かで妙に観光地化されてないのところがいい。庭に干した洗濯物の下で、おばぁちゃんとお孫さんが日向ぼっこをしていたりして生活感が漂ってる。


 
 
 冬の積雪は2メートルを優に超え、日本有数の豪雪地帯としてかつては秘境と呼ばれていた。現在は、五箇山トンネルや東海北陸自動車道の開通によって、交通事情も格段によくなった。


 昭和初期、ドイツの世界的建築学者、ブルーノ・タウトが惜しみない賞賛をおくったといわれる合掌造りは、雪国の風土と、先人の知恵と技の結晶だ。

 平成7年(1955年)12月、岐阜の白川郷とともに五箇山合掌集落は、後世に残すべき貴重な文化遺産として、国内では6番目のユネスコ世界文化遺産に登録された。

 合掌造りの家屋群を中心とする山村風景が世界的に評価されたのである。



倉集落の中心地
 


急峻な山間にひっそりと・・・

 平地は少なく、狭い段丘面と山腹の緩斜面に小さな集落が点在している。
 
伝承では平家の落人がこの地に安住の地を求め、集落をなしていったとされる。

 しかしながら、この付近からは縄文時代の遺物も発掘されており、それ以前からすでに先住していた村人たちが落人を受け入れたという話を聞いた。

 菅沼(すがぬま)相倉(あいのくら)の両集落には合掌造りの家屋が建ち並び、切妻の三角屋根と、水田、畑、石垣、雪持林が美しい景観を見せる。


 菅沼集落は、国道156号線沿い、庄川右岸のわずかな台地にひっそりと佇む9棟の合掌造り集落だ。
その内の2棟は、江戸時代に建てられたものだ。
 
 

  相倉集落は、五箇山を代表する合掌集落で、国道304号線から少し入った段丘に、まるで時が止まったかのように24棟の100年以上前に建てられた合掌造り家屋が建ち並ぶ。そのうちの11棟には、今も生活の場として村人が暮らしている。

 一番古い図書(ずしょ)家は、築400年の歴史を誇り、皇室も度々宿泊され、その思い出を短歌に残されている。


皇太子殿下御歌
 『五箇山をおとずれし日の夕餉時(ゆうげどき)
                 森に響かふこきりこの唄』

秋篠宮殿下御歌

 『暮らし映す合掌造りの町並みを
                見つつ歩めり妹を吾子らと』
   


皇室も泊まった築400年の図書(ずしょ)家
 


急勾配の茅葺き屋根と障子窓が美しい

 「合掌造り」という呼び名は、屋根が両手を合わせた形になっていることに由来する。

 60度という急勾配の茅葺き屋根は、切妻屋根がほぼ正三角形の形状をしていて、雪が降り積もるのを最小限にとどめる。


 内部には、雪の重みで根元の曲がったナラの巨木を梁に、大小数組のケヤキの筋違いを屋根に使う。

 また、釘やカスガイを一本も打たず、丸太を荒縄とネソ(マンサクの木)で結ぶなど、強風に吹かれたり大雪が積もり、多少揺らいだりしても倒れないこの屋根は、弾力性と柔軟性を併せ持ち、厳しい自然に対応した様々な工夫が凝らされている。


 合掌造りの大屋根ふきは、かつて共同体意識を育んだ「結(ゆい)」と呼ばれる共同組合によって、約300人程の村人によって行われていた。

 近年は、屋根の材料となる茅場も少なくなり、近代化によって「結」の意識も失われ、森林組合が行っている。
 


 15年ほどに一度葺き替えが行われるが、こんにち、茅葺き屋根の片側だけで約1,000万円の費用がかかる。
 1970年国の史跡に指定されて以来、国の補助でまかなわれるようになった。

 
 ブナの生い茂る山々を背景に、天に向かって屹立する茅葺の大屋根。
 急勾配の合掌屋根に、白い障子窓が美しく映える。
 
 合掌造りの起源は江戸時代中期といわれている。五箇山に現存する合掌造りは、古いものでは約400年前、新しいものでも約100年から200年前に建てられたものが多い。

 豪雪地帯で3年に一度は凶作だったという当時の五箇山では、養蚕や和紙製造が行われた。 こうした仕事に適したスペースを確保するために、高層の合掌造りに発展したと考えられている。
  


屋根が直接地面に接する原始合掌造りの納屋 



塩硝作り

 また、隠れた一大産業として塩硝作りがあった。 

 塩硝(えんしょう)とは、硫黄と木炭を合わせると鉄砲火薬の原料となる硝石(硝酸カリウム)のことで、 加賀藩の領地であった五箇山では、藩の庇護の下、家屋の床下で密かに作られていた。  

 蚕の糞にヨモギ、ウド、サクなどの干し草を加え、囲炉裏の下に埋めその熱で発酵させる。 5年後、できた塩硝土を取り出し水でろ過、さらに煮詰めて塩硝を取り出す。越中五箇山独特の培養法で生産された塩硝は国内随一といわれた。

 一般的には「煙硝」と書くが「塩硝」としたのは出来た結晶が塩によく似たものとなるので、塩と偽って取引されていた。



 
 1階は、塩硝作りや紙漉きの作業場と住居。2階は、広い作業空間と採光、保温を求められた養蚕に使用された。

 1階は一部を除いて簀の子張りになっており、囲炉裏からのぼる熱気を通過させて、蚕室を暖めた。
 
 更に階上の方では、糸を紡ぐなどの仕事も行われた。また、機織りも重要な作業の一つだった。合掌造りはまさに工場としての機能を備えていた。


 合掌造りの家々で織られた絹織物は、村人の着る物ではなく、かつては加賀の殿様への献上品であった。
 
 生活は厳しく、
今日の五箇山では秋になると稲がたわわに実るが、昔は村人たちはただ穀物を食べた。

  



工場として使われた2階部分



むかし見たような記憶の中の山村風景

 しかし、1年の半分を深い雪に閉ざされる五箇山の風土は、唄や踊りを愛し、楽天的でしぶとく、しなやかに信心深い人々の心を育んだ。

 厳しい自然の中で、人々はよく働き、子ども達はよく親の仕事を手伝った。農作業は朝早くから夜暗くなるまで行われ、嫁は働き手であった。 日中は赤ん坊は藁で編んだつぶら(いずめ)に入れられていて、育児は主に祖母に託されていたため、子守歌を歌う風習はなかったという。

 様々な伝承と風俗、祭りや民謡の数々は、大切に守られてきた先人の想いを受け継ぎ、暮らしてきた山人のぬくもりを感じさせてくれる。
 合掌造り家屋や山村風景は、その古き良き日本の伝統を色濃く残しながら、五箇山の山峡に静かな佇まいを見せていた。



 相倉集落では、観光客が少なかったせいもあり、写真を撮りながら歩いていても、狭い集落だけになぜか住人の目が気になった。
 こちらが村人の日常生活の場にお邪魔しているのだから当然だが、何となく落ち着けなかった。

 
しかし、それでもお話が聞きたくて軒先で掃除をしていたおばあさんに声をかけると、やわらかな方言交じりの語り口とやさしい笑顔で、昔話をしてくれた。

 またひとつ、私のお気に入りの場所ができた。 

                  



段丘を利用した水田












































(合掌村早春賦)                                                                  (白川郷)
 
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