明治の文豪、島崎藤村は、自らの故郷を舞台にした歴史小説 「夜明け前」の冒頭で、
『木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。』と書いている。
木曽路とは、いうまでもなく中山道の一部に過ぎないのだが、江戸時代の安藤広重と渓斎英泉作の浮世絵「木曽街道六拾九次」などにあるように、「木曽路」が中山道の代名詞となってきたのは、江戸から京都までの69次のうち木曾に11宿あったことと、街道を象徴する風土と景観がまさに木曽にあったということなのであろう。
中山道は、江戸を起点とする五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の一つで、東海道とともに江戸から京都を結ぶ重要な街道であった。
この街道の道程は、江戸日本橋から武蔵国(埼玉県)上野国(群馬県)信濃国(長野県)美濃国(岐阜県)を通り近江国(滋賀県)草津で東海道と合し、京都に至る69次、約132里であった。
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名称の由来は、日本国土の中間の山道ということで中仙道とも記されたが1716年、徳川幕府は中仙道を中山道と名称を統一した。
話は脇道にそれるが、中山道は約30の大名が参勤交代に利用したと言われている。その中で最大の領地を持つ加賀藩は、江戸上屋敷を中山道沿いの本郷地区に、下屋敷を板橋宿に置いた。
江戸上屋敷の敷地は、明治以降に東京帝国大学となった。そのため、現在の東京大学の本郷キャンパスは中山道(国道17号)に面している。また、かつての中山道に向かう形で、加賀藩前田家上屋敷の赤門が重要文化財として保存展示されている。
明治以降の急速な経済発展や空襲などにより沿道が急速に変貌した東海道とは異なり、中山道は江戸時代以前の街道や宿場町が比較的良く保存されてきた。
1960年代後半以降、これらを積極的に保存しようという運動が高まった。重要伝統的建造物群保存地区に指定された長野県の妻籠宿(1976年に指定)や奈良井宿(1978年に指定)、藤村ゆかりの馬籠宿などが有名である。 |