日光今市宿と会津若松城下を結ぶ下野(しもつけ)街道とも言われた旧会津西街道。
観光名所としても有名になった大内宿を過ぎ、六石山(ろっこくやま)の峠を越えて氷玉川(ひだまかわ)沿いに下ると、関山集落がある。
縄文時代後期より村の基礎作りがされていたことが塩原遺跡で発掘された土器、石器から知られている。
寛永18年(1641年)上小松村と合併して現在の集落形態になった。 関山は、道幅の広い街道の両側に家並みがあり、旅の指標である一里塚などの整備も早くからされた宿場であった。
しかし、慶応4年(1868年)の会津戊辰戦争では、関山・栃沢攻防の激戦の舞台となり、50戸あまりの集落全体が兵火により消失した。
集落にただ一つある雑貨店にカメラを向けると、中から『日本むかし話』に出てきそうなおばぁさんが顔を出した。「佐幕派の付け火で村が燃やされた時、うちの裏の蔵だけが焼け残ったんだそうだ」と朴訥な会津訛りで語りはじめた。東京から来たと告げると、「上がってお茶でも飲んでヶ」と誘ってくれた。
|
らーめんと蔵の町で若者にも人気の高い喜多方から米沢街道を7キロほど北上し、鹿島神社を左に少し入ったあたりの静かな里山に瀟洒な農家蔵が現れた。
杉山は戸数19戸の小さな集落で、藩政時代は木炭と笠の原料となるスゲ草の産地だった。
一本の小路をはさんで土蔵が建ち並ぶ。
白と黒の漆喰が美しく調和した観音開きの窓は、杉山ならではの特色となっている。また、屋根も深い雪に耐えられるように町場ではあまり見られない兜形だ。
これらの蔵には、生活や生産のための貯蔵倉と冠婚葬祭や賓客を迎えるための座敷蔵がある。蔵座敷の内部は漆で塗り飾られ当時の座敷としては最高のものだったという。
野良仕事に出かけるおばあさんに、「立派な蔵ですね」と声をかけると、「いや〜、ただ素朴なだけだ〜」と静かな口調でつぶやき、薄陽光のさしはじめた畑に向けゆっくり歩きだした。
まさに、周囲は素朴でのどかな雰囲気に包まれていた。 |