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 東 九 州 縦 断
 
ひ が し き ゅ う し ゅ う じ ゅ う だ ん




瀬の本

瀬の本高原
(撮影日:2014年9月28日)

  




北九州空港連絡橋
北九州空港は、2006年に開港した24時間運用の海上空港である。
この連絡橋は、空港と本土をつなぐ海上橋で、橋の長さは海上部が2100メートル。
中央に船を通すため、210メートルのアーチ橋がある。鋼モノコード式バランスドアーチ橋。
路面より上のアーチは1本の弦で、路面より下のアーチは、斜めに開いた複弦になっている。
2005年、新北九州連絡橋は、優れた橋に贈られる土木学会田中賞を受賞している。




中津城(ナカツジョウ)
天正16年(1588)豊前国中津(現在の大分県中津市)に「軍師官兵衛」こと
黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた。




周防灘(スオウナダ)に臨む中津川河口の地に築城された梯郭式の平城である。
堀には海水が引き込まれているため、今治城、高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。





八面山(659m)
四方八方どの方向から見ても同じような形に見える山であるため、
「八面山(ハチメンザン)」の名が付いたといわれる。
中津市を代表する山であり、地元では「箭山(ヤヤマ)」とも呼ばれる卓状溶岩台地である。





宇佐神宮(ウサジングウ) 表参道の神橋(シンキョウ)
日本には約11万の神社がある。その内、最も多い社(ヤシロ)が八幡神社(ハチマンジンジャ)である。
宇佐神宮は、全国4万6000社ある八幡さまの総本宮であり、伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟である。





寄藻川(ヨリモガワ)
宇佐神宮の神域を流れる川で、源は御許山(オモトサン)の南にあり、流れの末端は、
古くから放生会(ホウジョウエ)を行っている和間(ワマ)の浜で、周防灘(スオウナダ)に注いでいる。




御祭神である八幡大神は応神天皇の神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に
示顕したといわれる。創建は、725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りした。





八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称え奉るとともに、
仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられている。





宇佐の地は畿内(キナイ)出雲(イヅ゙モ)と同様に早くから開けたところで、 神代(カミヨ)
比売大神(ヒメオオカミ)が宇佐嶋(ウサシマ)降臨されたと『日本書紀』に記されている。





下宮門
境内の面積は60ヘクタール(60万u)、東京ドーム13個分である。




春宮神社トウグウジンジャ
応仁天皇の子で学問の神、菟道稚郎子命(ウジノワキノイラツコノミコト)を祀っている。




西大門サイダイモン
国宝の本殿、勅使門などと共に宇佐神宮の景観を象徴する建物。桃山風の華麗な構造。




 上宮 勅使門(チョクシモン)
千古斧を入れない深緑の杜に映える美しい本殿は国宝に指定されており、
総本宮にふさわしい威容を誇っている。しかし、工事中で見られなかった。





下宮 御炊宮(ミケミヤ)
嵯峨天皇の勅願により創建。上宮からの分祀で、祭神は上宮と同じ3柱。
片参りにならないように上下宮、計6ヶ所お賽銭を入れてお参りする事になる。

宇佐神宮では2拝4拍手1拝が古儀となっている。この拝礼作法があるのは
全国で出雲大社と宇佐神宮だけである。その起源は分かっていない。




宇佐鳥居(ウサトリイ)
宇佐古来の形式をもつ鳥居として有名で、額束はなく、台輪を柱上に置いている。




別府温泉の山側
別府は、温泉が市内各地で湧出し、別府温泉として全国的に知られる国際観光温泉文化都市。
源泉数は2,300ヶ所以上で日本の総源泉数の約10分の1を占め、湧出する湯量も
日量 125,000キロリットルにも及び日本最大。





十文字原(ジュウモンジバル)




別府湾に昇る九州で一番早い朝日







 由布院温泉 金鱗湖の混浴共同浴場『下ん湯(シタンユ)』
 由布院の風物詩でもある朝霧を生むのが、この金鱗湖。
湖底の西半分に温泉、東半分に冷泉が湧いているめずらしい池。、





亀の井別荘に向かう途中
町名とインターチェンジは「湯布院」であるが、駅名と温泉名は「由布院」である。
しばしば「湯布院温泉」と表記されるが、実際には「湯布院温泉」なる温泉地は存在しない。
昭和20年代後半、由布院町は深刻な財政危機にあった。1955年(昭和30年)、
当時多くの湯治客で賑わい財政の豊かであった湯平村と合併し、湯布院町が誕生した。





湯布院 フローラルビレッジ
絵本の世界そのままに緑の丘と愛らしい家、 時が止まったかのような町の佇まいとイングリッシュガーデン。




ハリーポッターの撮影地として知られるイングランド中央部の丘陵地帯、コッツウォルズを再現したという。




おみやげ屋さんもたくさんある。




案山子も猫ちゃんもお客を呼んでいる。




やまなみハイウェイ
大分県湯布院の水分峠から阿蘇の一宮町を結ぶ県道11号が、
九州随一、日本でも有数のワインディングロード『やまなみハイウェイ』である。





長者原 三俣山
森林の中を走る前半から、くじゅう連山を望む長者原(チョウジャバル)、
そして阿蘇外輪山を駆け降りる道路は、ドライブ心をくすぐる景色が次々にやってくる。





阿蘇の涅槃(ねはん)像
阿蘇火山の中央火口岳を構成する阿蘇五岳【根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳】。
北外輪山側から眺めると釈迦の寝姿に似ている。写真は、根子岳、高岳(1,592m)、中岳まで(頭と胴)。

中岳だけは今日でも火山活動を繰り返し、噴煙を上げている。




阿蘇山  高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳 (胸と足部_)をバックに草を食む放牧牛。




樹木でいろいろな造形物(植木アート)を創作している。個人的な趣味の世界らしい。








高千穂峡(タカチホキョウ)
高千穂峡は、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にある五ヶ瀬川に
かかる峡谷である。 国の名勝、天然記念物に指定されている。




阿蘇カルデラをつくった火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に
噴出した高温の軽石流(火砕流の一種)が、当時の五ヶ瀬川の峡谷沿いに厚く流れ下った。




柱状節理(チュウジョウセツリ)
この火砕流堆積物が冷却固結し熔結凝灰岩となり、柱状節理が生じた。熔結凝灰岩は
磨食を受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって再びV字峡谷となったものが高千穂峡である。
高さ80m〜100mにも達する断崖が7kmにわたり続いており、これを総称して五ヶ瀬川峡谷(高千穂峡)と呼ぶ。




真名井(マナイ)の滝
高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる滝で、日本の滝百選の一つ。神話によれば
天村雲命(アメノムラクモノミコト)という神が天孫降臨(テンソンコウリン)の際に、この地に水がなかった
ので水種を移した。これが天真名井として湧水し、滝となって流れ落ちているといわれている。





峡谷は貸しボートで遊覧できるようになっており、
峡谷に流れ落ちる「真名井の滝」の至近まで近づくことが出来る。





秋の里山風景




たわわに実る稲穂の黄金色がまぶしい。




赤い彼岸花が畦に咲いている。ネズミ、モグラ、虫など
田を荒らす動物が、彼岸花の鱗茎の毒を嫌って近づかないように植えているらしい。








霧島高原 まほろばの里




まほろばの夕陽




星空のチャペル・フロレスタ




霧島神宮(キリシマジングウ)
創建は6世紀、欽明天皇の時代。建国神話の主人公である瓊々杵尊(ニニギノミコト)を祀った神社。
最初は高千穂峰と火常峰の間にある背門丘に建てられたが、霧島山の噴火による焼失と再建を繰り返し、
約500年前に現在の場所に移された。現在の社殿は島津氏第21代当主(第4代薩摩藩主)島津吉貴が、
1715年に建立・寄進したもの。勅使殿や本殿は「西の日光」といわれるほどの豪華絢爛なつくりである。




勅使殿(チョクシデン)
天皇からの勅使を迎えるところとして設けられている。
神社と違い、神宮が天皇家との関係の深さを示唆するものである。



新神楽殿(シンカグラデン)
霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。
また、ご神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
坂本竜馬が日本最初といわれる新婚旅行で、霧島連峰を訪れたことで知られている。
その頃すでに山頂には天津日高彦火瓊瓊杵尊が突き刺したという天の逆鉾があった




桜木と灯篭と彼岸花
知覧特攻(チラントッコウ)平和会館に通ずる道には、特攻隊員慰霊のための灯篭が建立されている。
潔く花散らす桜の木の根元には、少し遅咲きで、珍しい黄色の彼岸花(ヒガンバナ)が咲いていた。
曼珠沙華(マンジュシャゲ)の別名を持つが死人花(シニビトバナ)、幽霊花(ユウレイバナ)などの異名もある。、




知覧特攻平和会館 零式戦闘機
  太平洋戦争末期の沖縄戦で、人類史上類のない爆装した飛行機もろとも戦艦に体当たりした陸軍特別
攻撃隊員の遺影、遺品、記録など貴重な資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に伝えている。
国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら散っていった若き勇士たちの遺影や直筆の遺書を
目の当たりにすると、戦争を追体験した様な感覚が身体にのしかかり、目頭に熱いものを感じた。




ホタル館 富屋食堂
富屋食堂は、特攻の母として慕われた「鳥浜トメ」の食堂だった。
鳥浜トメの生涯と特攻隊員とのふれあいの遺品・写真をおりまぜ、
ともに暮らした赤羽礼子の証言により、当時の場所に再現された。




知覧 ホタル館と富屋旅館
・・・宮川は「明日ホタルになって帰って来るよ」と言い残し出撃した。その夜、富屋食堂にいた
トメと娘たち、そして出撃前の隊員たちは、一匹のホタルを見て「同期の桜」を歌い、涙を流した・・・

ホタル館 富屋食堂に隣接する富屋旅館は、戦後昭和27年、遺族を知覧に泊めるために作られた。




知覧武家屋敷群
鹿児島市から南南西へ約36km、薩摩半島の南端部に位置する知覧は「薩摩の小京都」とも呼ばれている。
江戸時代は島津氏の傍流、佐多島津氏による統治が行われた。主に享保年間に島津久峯の統治下で
上級武士の住居と外敵からの防御を兼ねた知覧独特の重厚であり、かつ華麗なる武家屋敷群が築かれた。

今日でも、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と大刈り込みの生垣に当時の面影が残る。




門をくぐると正面に石垣(屏風岩)、まさに砦
薩摩藩(島津77万石)は領地を外城(トジョウ)と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である
御仮屋(オカリヤ)を中心に「麓(フモト)」と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく
分散して統治にあたらせた。知覧もその外城の一つであり、薩摩藩の中でも重要な役目を果たした。
知覧の港が江戸時代に琉球貿易の拠点であったことから、武家屋敷の造りも琉球の影響を受けている。




佐多直忠邸庭園
母ケ岳(標高517m)を借景として1700年代から1800年代初めに作られたとされる7つの庭園は、
昭和56年(1981年)に「知覧麓(チランフモト)庭園」として、国の(名勝)文化財に指定された。
森氏庭園(池泉式庭園)を除く6庭園は、枯山水式庭園である。武家らしい慎ましくも美しい庭だ。





知覧型二ツ家
分棟式の建物である居住用のオモテと台所のあるナカエを合体したもので、
知覧大工によって創作された知覧町独特の建築文化である。



オモテ


ナカエ



おとこ玄関とおんな玄関がある、旧高城家住宅




第十六代佐多久達の時代に島津姓の使用と私領地化が許され、城塁型(ジョウルイガタ)の区画が形成された。




昭和56年(1981年)、武家屋敷群の18.6haも国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。







日本の道100選 知覧武家屋敷通り




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