本州の中央部を岐阜県、長野県にまたがって南北に連なる木曽山脈(中央アルプス)、日本3大アルプスの一つだ。北アルプスや南アルプスのような3,000m超の山々はないものの険しい山並みが続く。最高峰は、2,956mの木曾駒ケ岳。
この山脈の東側には天龍川の流れる伊那谷、西側には木曽川沿いに中山道の通る木曽谷がある。
その昔、山脈を横断する峠越えの道は、北端の権兵衛街道(ごんべいかいどう)と南端の大平街道(おおだいらかいどう)だけだった。
伊那谷南部の飯田と中山道の南木曽妻籠(なぎそつまご)を結ぶ大平街道の開通は、江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64年)。飯田藩と地元の商人山田屋新七により、表向きは山林開発のためといわれていたが、実は中山道を通る参勤交代の荷物運搬の人夫に伊那の農民を動員するための最短ルートを開くためであったとも言われている。
大平は、飯田と木曽を結ぶ大平街道の峠の宿場として栄えた。幕末の戸数は37軒、旅篭2軒であった。
現存する民家は、養蚕、林業、炭焼きで活気のあった江戸末期から明治期に建てられたと思われるものも多く、標高1,100mの山間のひなびた宿場にしては大型で立派な構えの家屋が多い。
大平宿の建物は、信州に古くからある板葺き、石置きの勾配のゆるい屋根が特徴である。平入り、妻入りがあり、入口には広い土間と大きないろりのある板の間が、往時の姿をとどめている。
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外観は背の低い2階建てに見えるが、内に入ると吹き抜けになった平屋建てである。また、船竅iせがい)造りで軒下を広くとり、宿場として必要な空間を確保する工夫が見られる。
集落の中をゆるい坂道の旧道が水路と共に通り、四季折々の情景を見せる。
大平の生業の中心は炭焼きで、昭和30年頃までは値もよく豊かな生活ができた。しかしながらその後、需要エネルギーが石油に取って代られると、一気にその生活の糧を失っていった。
過疎集落になっていく大平はついに、高度成長期の昭和45年、部落民の総意として200年以上続いた集落を捨てて集団移住を決定し、同年11月末をもって廃村となった。
廃村から3年後の昭和48年、観光地開発の計画がもちあがった。その計画への反発をきっかけに、宿場の町並みや自然保護などを訴えて市民団体が立ち上がった。その後「大平宿をのこす会」となったこの団体は、積極的に行政への要請活動を続け、専門家やジャーナリストなどと共に連携しながら質の高い保存運動を展開してきた。
そして現在、改修を重ねながらも『いろりの里 大平宿』として往時の町並みがそのまま残されている。ここの運営のユニークな点は、「大平宿をのこす会」の管理の下、民家や旅籠を一軒丸ごと借り切って泊まり、昔懐かしい不便な生活を体験できることだ。
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