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![]() 白川村荻町を俯瞰する 白川郷は、富山と石川県境に接する岐阜県の北西部にある。正式には岐阜県大野郡白川村といい、 人口は1,900人程度の小さな村だ。 今回私が訪れたのは、梅雨明け後の7月の暑い日であった。 本当は1月末の豪雪に閉ざされた白川郷の真っ白な世界を見たいと思っていた。 しかし、岐阜県在住の友人が「真冬の白川郷は本当に危ないから東京の素人もんは 行かないほうがいいですよ」と言われ、ビビッてしまって夏場の旅行と相成ったのである。 メインストリートは、案の定観光地化され、車は結構行き交っているし、一本なかに入った通りもおみやげ屋が並んでいたりする。 私は、人ごみが余り好きではないので、山添いのひっそりとした山村風景の中を散策することにした。 |
| 白川郷は、ドイツの建築学者ブルーノ・タウト(1880〜1938)の著書「日本美の再発見」によって広く紹介され、一躍世界の注目を集めるようになった。 タウトは、1935年(昭和10年)、御母衣(みほろ)の遠山家を調査する目的で白川郷を訪れた。遠山家は、白川村で一番大きな合掌造りの建物だった。 彼は合掌造りを「極めて論理的かつ合理的で、日本の建築では例外に属する珍しい庶民の建築」と考え、日本の建築では京都の桂離宮とともに、白川郷の合掌造りを高く評価した。 白川郷は、五箇山合掌集落とともに1996年12月9日にユネスコの世界文化遺産に登録された。 |
![]() 御母衣の旧遠山家 |
![]() 山沿いの道から明善寺、城山方面を望む |
世界遺産条約は、各国の文化・自然遺産を人類全体のための世界遺産として、損傷、破壊の脅威から保護し、保存するため国際的な協力体制を確立することを目的として、1972年のユネスコ (国連教育・科学・文化機関)総会で採択されたものだ。 2001年1月現在、世界遺産リストに登録されている物件は、122ヶ国にある690件だ。 世界遺産には文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類がある。
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690件の世界遺産には、実にさまざまな自然や文化が含まれていて、日本からも11件がリストアップされている。国内の世界遺産は 、登録年順に以下の通りだ。 ●法隆寺地域の仏教建造物 (1993年/文化) ●姫路城 (1993年/文化) ●白神山地 (1993年/自然) ●屋久島 (1993年/自然) ●古都京都の文化財(京都市・宇治市・大津市)(1994年/文化) ★白川郷・五箇山の合掌造り集落 (1995年/文化) ●広島平和記念碑(原爆ドーム) (1996年/文化) ●厳島神社 (1996文化) ●古都奈良の文化財 (1998年/文化) ●日光の社寺 (1999文化) ●琉球王国のグスクおよび関連遺産群(2000年/文化) |
![]() 時代劇の撮影現場みたい |
![]() 段丘の斜面に建つ家屋 |
文化遺産に偏りすぎているが、日本は1992年の条約批准以来、着実に数を増やしつづけている。 この他にも日本はあと 5件を登録準備中として、世界遺産の暫定リストに記載している。暫定リストとは、今後 5年もしくは10年以内に世界遺産リストへの登録を予定する物件のリストアップだ。 日本が記載している 5件とは、 「彦根城」 「鎌倉の社寺・ほか」 「平泉の文化遺産」 「紀伊山地の霊場と参詣道」 「石見銀山遺跡」だ。 更に、「知床半島」 「鳴門海峡」 「善光寺」 「富士山」なども世界遺産化を目指しているようだが、こちらは世界遺産暫定リストには挙がっていない。 ※ その後、登録された世界遺産 ●紀伊山地(2004年/文化) ●知床(2005年/自然) ●石見銀山(2007年/文化) ●小笠原諸島(2011年/自然) ●平泉(2011年/文化) |
| 文化遺産として世界遺産リストに登録するには様々な条件がある。 まず、その文化遺産が世界遺産条約で定義されている「記念碑」「建築物群」「遺跡」のいずれかである必要がある。 そして以下に示す登録基準を一つ以上満たす必要があるのだ。
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![]() 旧遠山家 |
![]() 大きな三角形の妻面をみせる家屋群 |
対象となる3集落は、庄川沿いに形成された段丘面にあり、この地方独特の民家の形式である「合掌造り」家屋を中心とした山村である。いづれも集落の歴史的景観とその周囲の自然環境が良好に保存されていて、日本を代表する歴史的遺産として高く評価されている。 「合掌造り」は、叉首構造の切妻屋根とした茅葺きの家屋で、一般の日本の民家に比べて規模が大きく、屋根の勾配が急傾斜となっている。このような形式の家屋が造られたのは、降雪に対処するためだが、養蚕などの用に供するため小屋内の空間を広く大きくとる必要があったからでもあり、多くの場合、小屋内を2〜3層、あるいは規模の大きな家屋では4〜5層に造って効率的な利用を図っている。 小屋内をこのように活用するのは日本の農家では極めて珍しく、また、聳え立つような大きな三角形の妻面をみせる家屋が群となって並び立つ集落景観は、他の地方には見られない独特のものだ。 |
| 大昔は地面に穴を掘り、その上に直接合掌を組んで、人々が居住していたようだ。その後、焼畑のほったて小屋となって風や雪に耐えられるよう工夫したり、茅(ススキ)やソネといった土地特有の建材を利用するなどの改良が行われ、現在の合掌造りの形に近づいていった。 合掌造りの基本的な形が完成するのは、養蚕の影響を受けた民家が出現する18世紀以降、おおむね江戸中期より後のことと考えられている。 現在確認されているものでは、下呂町に移築さた大戸家の棟札に、1833年(天保4年)越中長坂村大工新右衛門ら4人の職人によって建てられた、との記録がある。 |
![]() のんびりとした山村風景 |
![]() 石垣と大屋根 |
合掌とは一般に、日本全国や世界的にも広く用いられている屋根を支える構造を指すことばで、民家の小屋組では「サス」とも呼ばれる。 これに対して白川郷の「合掌造り」は、民家の地域的特徴を示す形式に付けられた名称だ。 合掌造りの構造は、屋根を支えている三角の小屋組部分と、その下の部屋割りされた一階の軸組部分の二つに分けられる。一階の軸組は大工、上部の小屋組は村民の手による仕事で、同じ一件の家屋でも、上と下では全く異なった方法で建てられている。 |
合掌造りの特徴としては、第一に屋根裏の広いことがあげられる。その広い屋根裏を何層にも区切り、おもに養蚕の場所として使用してる。第二の特徴は、切妻屋根がほぼ正三角形の形状をしていて、屋根勾配がかなり急なことだ。屋根を葺く材料には茅が用いられ、およそ30年に一度の割合で葺き替える。 茅は一般に、大茅(ススキ)と小茅(カリヤス)の二つに分けられ、同じ白川村でも庄川上流の平瀬では大茅、荻町では小茅が葺かれた。大茅に比べて小茅の方が、屋根もちはいいが、今では小茅が少なくなったから、多くの合掌造りが大茅で葺かれるようになった。 屋根の葺き替え費用は、片側だけでも約1,000万円以上かかるそうだ。世界文化遺産に登録された現在は、国庫補助・負担になっているはずだ。 |
![]() 正三角形の切妻屋根 |
![]() 和田家、最上階 |
![]() 和田家、一階の広間(オエ) |
![]() 子供の頃にザリガニを釣った場所を想い起こす |
合掌造りの屋根は、太い合掌桁によって支えられている。合掌桁の下端は、独楽の軸先のように削ってあり、この部分をコマジリと呼んでいる。 コマジリを合掌梁の穴に差し込んで、幾つもの合掌桁が立ち並ぶ。この合掌桁が構成する正三角形が、重心を左右へと分散して安定した構造を保つのだ。 合掌桁を補強するために、その外側に横木のヤナカ、縦木のクダリという丸太を数多く通し、さらにスジカイも加えて、屋根の骨格が完成する。ヤナカとクダリを結び付けるのには、「ネソ」(学名マンサク)と呼ばれる柔軟性に富んだ木が使われる。ネソはそのほか、棟を形成する茅を縛るためにも用いられる。わら縄やネソで縛る場所は1,500ヶ所にもなるという。 |
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合掌造りには、「シャチ」と呼ばれる木製の建築材をはじめ、木製のくさびやとめせんなどがつかわれ、釘が一本も使用されていない。 合掌造りの屋根は、強風に吹かれたり大雪が積もったりしても、多少揺らいだりするけど倒れない。コマジリやネソを使うことで、弾力性と耐久性を併せ持ち、自然に逆らわないように工夫された家屋は、昔の人たちの培ってきた豊かな知恵のたまものといえる。 |
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![]() 屋根裏 |
合掌造りは火災に対して弱いため、合掌集落の集まっている荻町では、今でも日に4回の「火の番廻り」と呼ばれる防火当番が、組ごとに決められている。 第一回目は午前10時頃に廻り、「火の用心、大事にさっしゃれや」と戸外から声を掛ける。 第二回目は夕方で、拍子木を打って廻る。第三回目は夜に行い、杓丈を突きながらチリンチリンと音をたてて廻る。以上の火の番廻りは、村内の各組で行われるが、第四回目の「大廻り」は、深夜12時から約1時間かけて、荻町全体を廻る。大廻りは、二人一組で拍子木を打ちながら、村内を一周する。村内各所に巡視の判が設置され、大廻りは廻った証拠にそれらの判を手帳に押していく。 決して火事を出さないようにとの自警の精神が、大変な火の番廻りを支えているともいえる。 |
荻町には現在、予期せぬ火災に備えて、55台の消火栓付き放水銃をはじめとする徹底した消火器具が完備していて、毎年何回もの消防訓練が行われている。万が一火災が発生したときには、これらの消火栓が一斉に開かれ、合掌集落全体が水の中に包み込まれる仕組みになっいる。 荻町では、夏の風物詩に数えられる花火は、例え線香花火であっても禁止だ。観光客はもちろん、地元のこどもたちでさえも、花火をすることが許されていない。 白川郷の人たちは、このような防火のための知恵と工夫と努力に加え、防火の神である秋葉神社を祀るなど、心の面からも火災への備えを行ってきた。自らの手で貴重な文化を守ろうとする、ひたむきな心が感じとれる。 どうやら最後は職業的な関心事に終始してしまった。 |
![]() ひまわりが水を抱えて火の見番? |
![]() 家の傍らに、立葵が綺麗な花を咲かせていた |
![]() なぜか、私にはJAZZが聞こえてくる風景 |
![]() 日本昔話に出てきそうなナントものどかな風景 |
私は、横浜の下町で少年時代を過ごした。自転車で小一時間も走ればそこには丘陵や茅葺屋根の農家が見える田園風景が広がっていた。 墓場などによくある榊の葉の裏に隠れているホンチやババ?(友達のものと戦わせるための蜘蛛)採り、田んぼでのアメリカザリガニ釣りに夢中になり、日の暮れるのも忘れて遊んでいた記憶の中の風景がそこにはあった。 しかし、なぜか長い時間ここにとどまろうという気分にはなれなかった。初夏の強く照りつける日差しに加え、押し寄せる観光客のざわめき、車の騒音などがそうした雰囲気をつくり上げたのかもしれない。 次に訪れるのはいつのことかはわからないが、やっぱり合掌造りの三角屋根に真っ白な綿帽子をかぶった静かな白川郷を見てみたいとの思いを抱きながらこの村を後にした。 <撮影 2001年 7月20日> 地図
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