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土佐国 高知
と さ の く に こ う ち
久礼湾の朝
(撮影日:2009年12月08日)
中土佐
久礼(ナカトサクレ)の
双名島(フタナジマ)と朝日色に染まる海霧
土佐久礼は、高知県の中央部よりやや西側に位置する。入江に山が迫るわずかな平地に開けた町だ。
「土佐の一本釣り」で有名だが、その歴史は意外と浅い。古くから大敷網漁で活況を呈していたが、
漁獲量の減少で一本釣りへと転換したらしい。だるま朝日も有名だが今回は雲が出てしまって残念。
冷え込みが一段と厳しくなる冬の朝 海霧が発生する。霧は、北風に運ばれ沖へと水面を走っていく
。
黄金色に輝くその朝霧の中を、漁を終えた漁船が港へと帰っていく。
朝霧
お稲荷さん
久礼八幡宮
久礼港
大正町(タイショウマチ)市場
昭和46年に建てられた久礼の台所として愛され続けてきた大正町市場は、
老朽化が進んだため、平成15年に改装されリニューアルされていた。
大正町市場の始まりは明治時代の中ごろ、漁師のおかみさんたちが夫や息子のとってきた小魚などを
売りだすようになった。大正4年、市場周辺一帯の230戸が焼失するという大火に見舞われた。
そのとき、当時のお金にして350円が復興費として大正天皇より届けられた。
これに深く感激した町民は、それまでの「地蔵町」という町名を改めて「大正町」と命名したという。
高知県最古の酒蔵といわれる
久礼の
西岡酒造
江戸時代中期の天明元年(1781年)に、初代井筒屋仁助が創業し、
現在9代目に至っている220余年の歴史を持つ蔵元。銘柄は「
久礼
」「純平」「雪柳」など。
横浪黒潮(ヨコナミクロシオ)ライン
須崎市と土佐市を結ぶ横浪半島の入り組んだ海岸線を19キロ弱走れる爽快なドライブコース。
南には断崖絶壁の先に雄大な太平洋が広がり、北には緑の山の中に浦ノ内湾が穏やかに浮かんでいる。
横浪半島は、足摺岬と室戸岬のほぼ中間に位置する。標高255.4mの宇津賀山を最高峰として200m
前後の山々が連なる東西約10kmの半島で
県立自然公園に指定された風光明媚な観光スポット。
太平洋岸は大小の岬・岩礁が突出し、複雑で変化に富んだリアス式海岸となっている。
リアス式海岸という呼称はスペイン北西部のガリシア地方で入り江が多く見られた事に由来する。
スペイン語で「入り江」を意味するリア(
ria
)あるいは、入り江の多い地方の名前
(
Costa de Rias Altas
)等を元に、1886年にドイツの地理学者、
フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンが命名した。
この地域の地質構造は、房総半島から関東山地、赤石山脈、紀伊山地、四国山地南部、九州山地
南部を経て沖縄本島までの長さ1,800kmにわたり帯状に分布する四万十層群の四万十帯である。
浦ノ内湾(横浪三里
)
四万十帯は大型化石に乏しく永らく時代未詳の地層群であったが、
1980年代に微化石(放散虫)の研究から中生代〜新第三紀の付加体であることが明らかになった。
中生代〜新第三紀とは、恐竜全盛から絶滅に至る今から約2.5億年から2千万年前あたりの時代。
付加体(フカタイ)とは、海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、
海洋プレートの上の堆積物がはぎ取られ、陸側に付加したもの。
前代(古第三紀)に生まれたフィリピン海プレートが、南海トラフに沈み込み始めた。
これは現在も継続しており、四国沖には今も付加体が形成され続けている。
付加体は、砂岩層が回転しながらちぎれたような変形が特徴。
大規模な変形や混在岩相(メランジェなど)が、
横浪半島東端の五色ヶ浜ルートに「横波メランジェ」として大きく露頭している。
高 知 城
高知の街の中心に、そのシンボルとしてそびえ立つ
関が原の戦いの功績によって、徳川家康から土佐の国を任されることになった山内一豊が築いた城。
天守閣と追手門が残っている城として、日本に残されているたった三つの城のうちの一つで
追手門から天守閣が一つの画面に収まるのは高知城だけという。
天守閣に続く道
城郭の形式は梯郭式平山城。
高知平野のほぼ中心に位置し、鏡川と江の口川を外堀として利用している。
天守と本丸御殿
4重6階の望楼型天守閣をはじめとする15棟が国の重要文化財に指定されている。
書院造
武市高朋作 波の透彫欄間
野面積みの石垣
板垣退助像
幕末は倒幕に走り、戊辰戦争の活躍によって注目された。立志社をを創立、自由民権運動を展開した。
明治14年自由党総理になった翌15年4月岐阜にて演説終了後暴漢に襲われ、
その時発した言葉が新聞各紙に報じられた。
「板垣死すとも、自由は死せず。」
この事件により、
自由民権運動は当時最高潮に達し、板垣退助は”自由の生き神”とまで言われるようになった。
五台山 竹林寺(ゴダイザン チクリンジ) 本堂(文殊堂)
神亀元年(724
年
)、聖武天皇(ショウムテンノウ)の勅願(チョクガン)を奉じた行基(キョウギ)により
唐の五台山(ゴダイサン)になぞらえ開創された。大同年間(806〜809
年
)には
弘法大師が四国回国の砌、錫(シャク)を留めて修行した由縁をもって、
のちに四国霊場第三十一番札所に定められた。
行基自ら謹刻した「三人寄れば文殊の智恵」と親しまれる文殊菩薩像が本尊。
わが国に現存する文殊五尊像の中で最古の作例といわれている。
江戸時代には、土佐代々藩主の帰依を受け、藩主祈願寺として寺運は隆盛。
堂塔は土佐随一の荘厳を誇り、学侶が雲集、学山(ガクザン)(学問寺)として当地における
宗教・文化の中心的役割を担った。土佐の民謡「よさこい節」で広く親しまれている
純信(ジュンシン)・お馬の恋物語。
その僧・純信も江戸時代末、この寺の脇坊・南の坊に住む修行僧のひとりだった。
大師堂と五重塔
古くは三重塔であったが、明治32年の台風により倒壊。 昭和55年、高さ31メートル、総檜造り、
鎌倉時代初期の様式をもつ五重塔として復興した。 塔内にはインド・ブッタガヤより勧請された
仏舎利(ブッシャリ)を納め、また、初層内陣には大日如来(ダイニチニョライ)が祀られている。
中央構造線 夜明け
安芸の空
高知城の外堀とされた江ノ口川 藁工倉庫水景
日曜市
元禄3年 (1690
年
)に高知城下で始まった定期市に端を発する街路市。
その中でも最大規模を誇る。高知城追手門から追手筋を約1kmにもわたって開かれる。
店舗の数は600、人出は4万人。毎週日曜日、日の出から日の入りまで観光客や
地元の人々などで通りは賑わっている。 揚げたての「いも天」がうまい。
はりまや橋
よさこい節で一際有名となった竹林寺の修行僧「純真」と「お馬」の恋物語の舞台
以前は川も埋められ、「日本三大がっかり名所」のひとつとも言われていた。
平成10年に「はりまや橋公園」としてリニューアル。朱色に輝く欄干が美しい太鼓橋が設けられ、
橋の下には水路も作られた。その下の地下道に、以前の欄干の一部が保存・展示されている。
高知市民の足、土電(トデン)
高知市内で伊野線・後免線・桟橋線の3つの路線を運営している土佐電気鉄道の路面電車。
これらの路線は、はりまや橋停留場で交差している。
総延長は25.3kmで広島電鉄宮島線に次ぐ規模の路線を有する。
市内中心部と東西の郊外を直接結んでおり、電車の運転頻度も比較的高いため、利用しやすい。
桂浜
上竜頭岬が北東端に、下竜頭岬が南西端にあり、その間に挟まれて弓形に砂浜が延びている。
下竜頭岬には竜王宮があり鳥居が立っている。高知市を代表する観光名所。
坂本龍馬の銅像が太平洋を望んで立っている。
坂本龍馬像(高知市桂浜)
海援隊の隊長,薩長連合の締結,大政奉還の成立など、幕末の志士として足跡を残す。
大政奉還の後、同郷の中岡慎太郎 と共に京都近江屋の2階で佐幕派の刺客に襲われ暗殺される。
享年33歳
武市半平太像(須崎市横浪)
幕末の志士で土佐勤王党の党首として活躍。
坂本龍馬 や 中岡慎太郎 のように脱藩せず、藩内で
実権を握ることによっての勤皇倒幕を目指した。
中岡慎太郎像(室戸市室戸岬)
脱藩して倒幕活動に奔走したが、大政奉還後に
坂本龍馬 と一緒のところを刺客に襲われ暗殺される。
金剛山から香南方面
五台山(ゴダイサン)より高知市街を望む
五台山は高知市街の東側、浦戸湾に面している。竹林寺や、高知県立牧野植物園があり、
高知の中心部にほど近い観光スポットとして多くの人が訪れる。
五台山の名前の由来は、神亀元年(724年)時の天皇であった聖武天皇が、
唐の五台山で文殊菩薩から知恵を授かる夢を見た。
そこで僧・行基を呼び、日本でも同じような山を見つけるようにと命じた。
行基は各地を渡り歩き、ついに土佐にあるこの山を選び、その名をつけたという。
五台山(ゴダイザン)より高知市街夜景
標高約140メートルの山頂からは高知の街並みを一望することができ、夜景が美しいことでも有名。
室戸岬灯台(ムロトザキトウダイ)
明治32年に点灯されたこの灯台は、100年以上にもわたり、航海の安全を守ってきた。
レンズの直径は2メートル60センチで日本一。
足摺岬灯台とともに、「日本の灯台50選」に選ばれてる。
室戸岬からのチョットだけ「だるま朝日」
実はこの後、一度雲隠れしてしまった。もう少しで「だるま朝日」完成だったのに・・・。
そしてその雲の上からまた頭を出しはじめた。
眼下に広がるデッカイ空と海、どこまで続いているんだろう。その先は亜米利加か・・・
御厨人窟(ミクロドクツ)
1200年前若き日の弘法大師が修業の地とした
水掛地蔵
大師がこの洞窟から見える空と海に感銘を覚えた事から「空海」の名前につながったといわれている。
亜熱帯植物、アコウ
クワ科の常緑高木。暖地の海岸にはえる。幹や枝から気根を下垂する。
土居廓中(ドイカチュウ)
土居廓中は、安芸一体を支配した安芸氏の城郭跡と、それを囲む武家屋敷のこと。
割れ瓦を積み重ねた練り塀
など昔のままの街並みがそのままに残され、藩政時代の面影を漂わせている。
安芸城を拠点に、長い間安芸を支配したのは安芸氏という豪族だった。その安芸氏を滅ぼした
長宗我部氏がいったんは支配するが、関が原の戦い後は山内一豊が土佐に入国、
一国の主となる。その山内氏は家臣の五藤氏に安芸城を任せ、ここを郡政の拠点とした。
瓦と玉石を使った塀
安芸城は天和元年(1615)の一国一城令で廃城になったが、
五藤氏は内堀に囲まれた土居内に屋敷を構え、枡形の櫓門や土塁上の塀など周辺を整備した。
土居の外には家来団の居住地である廓中(かちゅう)を整え、
馬目樫や土用竹の生垣で囲まれた町並は、今なお落ち着いた侍屋敷の面影をとどめている。
唯一、一般公開されている質素な佇まいの「野村家」
野村家は、与力、騎馬として五藤家に仕えた上級の家臣で、地元の財政・人事等の
惣役(元締)であった。山内一豊と共に五藤為重が高知にやって来た時に選ばれた、
数少ない高知出身の武士の一人だったそうだ。
土居廓中には約40戸の武家屋敷が残っている。その中で最も古く
1830年頃に建築されたと言われている。
屋敷の手入れは、野村家の方が毎日されているそうで、隅々まで掃除が行き届いていた。
入り口の表門
敵の襲撃を防ぐために設けられた塀重門
風通しが良いように北側にも縁側。
縁側が北南の両側に設けられている。
家庭菜園ができそうな小さな庭
客間として使われた表の間
土居の野良時計
一人の機械文明に憧れた青年の好奇心が作りあげた櫓時計である。明治20年頃、
この地の地主だった畠中源馬氏が、10歳の頃に父 から与えられたアメリカ製の
八角形の掛け時計を分解しては組み立て、
構造を完全に理解したうえで、分銅や歯車などすべての部品を手作りし、組み上げた。
北川村、モネの庭マルモッタン
移りゆく自然の情景をこよなく愛し描き続けた“光の画家”、クロード・モネ。
43歳の時にパリの西方80キロ、セーヌ川右岸の人口わずか300人のジヴェルニーに移り住んだ。
そこで築いた理想の庭園で創作活動を続けながら半生を過ごしたと言う。
モネが「最高の場所だ」と言い切ったというジヴェルニーの庭。
そんな、モネの作品の世界そのものでもある庭園が高知県の大自然の中に再現された。
モネが愛した日本風の庭園を再現した「水の庭」。
モネは印象派グループの画家のなかではもっとも長生きし、
20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。
太鼓橋や藤棚、柳や竹に彩られた池には、美しく咲き誇る色とりどりの花や睡蓮。
モネの代表作『睡蓮』の風景がそのままに眼前に広がる「水の庭」
吉良川(キラガワ)の町並み
吉良川町は室戸市の西部、伝統的な建物を多く残し、懐かしい風情を漂わせる町。
平行して流れる東の川と西の川を、垂直に結ぶ道路沿いに、
古き良き町並みが約1kmに渡って続いている。
吉良川町は明治時代に、製炭業で栄えた。
今でも、民家をはじめ蔵や商家など、当時の建物がそのままの形で残されている。
1997年、高知県で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
水切瓦は、壁面の水量調整と、装飾的な役割を持っている。
施主によっては、『隣の家にまけたくない』こんな思いも加わり、
水切瓦の段数(瓦の数)を決めたといわれる。
土佐漆喰は通常の漆喰と異なり、さまざまな特徴をもっている。
土佐で産する純度の高い真っ白な石灰石を原料とし、スサに発酵藁を使用することで、
一般の漆喰が必要とするツノマタなどの糊を使用していない。
糊を使わないので漆喰壁に水が入っても戻りがないため、屋外に使用しても剥がれ落ちる心配がない。
また、塩焼き灰の効果により標準混水量が少ないため、左官の1回の塗付けを厚くすることができる。
乾燥収縮も極めて小さいため、目地を切らずに大きな壁を作ることが可能だという。
現存する建築物等から推察される土佐漆喰の登場は、幕末〜明治初期と考えられている。
土佐漆喰(トサシックイ)の外壁と水切り瓦
台風銀座で有名な室戸岬に近い吉良川町は地理的に強い雨や風にさらされやすい場所。
水切り瓦の役割は、土佐漆喰を施し肌理細やかに塗られた白壁が雨などで傷まないように、
文字通り水切りのため、壁面に何段にも渡って取り付けられた瓦だが、
それは同時に白壁と美しい調和をかもし出し、吉良川町特有の景観を作り出している。
台風常襲地、室戸ならではの防風石塀 「いしぐろ」
太平洋からの吹き晒しの強烈な雨風から家屋を守るための塀で、河原の20センチ前後の
大小さまざまな石を積み上げた石垣を、この地区では「いしぐろ」というそうだ。
そのほとんどは丘地区の住宅に見られ、雨風にさらされた傷跡もそのまま残っている。
風雨にさらされた白壁。水切り瓦の下だけ白さが残っている。
現在も備長炭を扱う商家。
明治39年に建てられたそうだが、武士を上から見下ろすことになる二階建てが
禁止されていた江戸時代の名残か、天井が低く抑えられた厨子(ツシ)二階造りとなっている。
塗りこめられた漆喰の中央に京都・奈良などでよく見られる虫籠(ムシコ)窓ではない穿たれた明かり採り
窓が印象的だ。なまこ壁を用いた戸袋、太い格子とその下の銅板の腰壁などが旧状を良く保っている。
奥は本二階造り、手前は厨子二階造り。
戸袋の下半分には、なまこ壁が用いられ、
1階庇にはタルキの先端を隠す鼻隠し板が取り付けられている。
浜地区は、古い商家造りの家並みが続く。
海岸から御田八幡宮に続く参道の一角で衣類のバーゲン?
この建物は、明治24年に建築された当時は呉服業を営んでいたそうだ。
黒塗りの杉板を腰部分に張っており、その上の白漆喰とのコントラストが鮮やかだ。
樹齢500年 御田八幡宮(オンダハチマングウ)のクスノキ
吉良川八幡宮とも称し、古来吉良川地域の総鎮守であった。
西暦奇数年の5月3日に行われる神事の吉良川御田祭は重要無形民俗文化財に指定されている。
碆上の釣り人
海に浮かぶ岩礁をこの辺りの人は、石の上に波と書いて「ハエ」と呼び、
大きい
碆
には名前も付いているそうだ。
羽根岬の「だるま夕日」
夕日がちょうど海に沈もうとする瞬間、大気温と海水温の差によって光の屈折が生じ、
海面にもう一つ夕日が現れ、その二つが接した姿がだるまのように見える。
だるま夕日に見守られて釣りする人
羽根岬(ハネミサキ)
室戸市の西入口に突出した岬で、土佐日記の作者 紀貫之の歌碑がある。
―
まことにて名に聞く所 羽根ならば 飛ぶがごとくに 都へもがな
―
高知市の平野部がまだ海の底だった平安時代、
紀貫之は土佐の国司として現在の南国市比江に赴任した。
土佐日記は、5年間の勤めを終えた貫之が小さな屋形船で土佐大津の港を出発し
室戸、淡路島を経由して京都に帰る途中、承平4年(934年)12月21日〜翌年2月11日の
55日間を綴った旅日記である。その昔、貫之もこの場所から大海原に沈む夕陽を
眺めていたかも知れないと思うと、なぜか心が和んできた。
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