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角筈・淀橋・十二社

つ の は ず  よ ど ば し  じ ゅ う に そ う

 

コンクリートジャングル
撮影: 2002年 12月.28日)


角 筈 ・ 淀 橋 ・ 十 二 社 に つ い て

 私が若い頃のこの界隈の風景を想いだした。
〜雑然とした大都会の一角にぽっかりと穴があいたような荒涼たる大地に、近未来を予想させるかのように、京王プラザホテルの真っ白なビルが一棟だけ天に向かってそびえ建っていた〜
 「角筈・淀橋・十二社」どれも現在、地図からは消失してしまった地名だ。当時はまだこの地名だったと思う。
 由緒ある地名が次々と合理化の波にかき消されていった。懐かしさからタイトルにしてみた。

 その名のルーツをたどると、江戸時代、甲州街道沿いの宿場は、上・下高井戸に置かれていたが、日本橋から四里も離れていることから、信濃高遠藩・内藤氏の敷地の一部が新たな宿場として開かれることとなった。これが内藤新宿である。

 内藤新宿の道が左右に分かれるあたりが追分で、道を右へとると青梅街道、左へとると甲州街道である。そのふたつの街道を行った先の、両街道に挟まれたあたりが角筈村であった。ちなみに「角筈」とは真言宗で在俗の僧を呼ぶ言葉で、当地の名主「渡辺与兵衛」がその名で呼ばれていたのが起源だそうだ。

 明治18年、日本鉄道品川線(品川〜赤羽)が開業し、追分に新宿駅が出来た。その後、内藤新宿は南豊島郡内藤新宿から豊多摩郡内藤新宿へ。大正9年(1920年)には東京市四谷区新宿となり、淀橋区(四谷区、牛込区)となった頃にこの界隈は「角筈・淀橋・十二社」に分かれたという。現在の東京都新宿区西新宿1〜3丁目周辺だ。
 



 その昔、十二社には滝が流れ、江戸中期以降より西郊の景勝地と謳われた。そして、その広大な緑の敷地内には熊野神社がある。

 慶応年間(1394〜1428)、紀州熊野から出て来て、このあたりを開墾した鈴木九郎が、紀伊国熊野から三所権現、四所明神、五所の王子、あわせて十二所を勧請して祀ったと伝えられる新宿の総鎮守である。
 初めは十二相殿(じゅうにそうでん)といったが、後に十二社(じゅうにそう)とも呼ばれるようになった。

 十二社の森は、かつての面影を伝えるものとして、昭和43年(1968)に整備され、区立新宿中央公園となった。約9ヘクタールの敷地には、広場や噴水、池などを配置、二つの滝もある。かつての景勝地は現代的で快適な公園へと姿を変えた。

 この広大な街区に立ち並ぶ超高層ビル群は、明治19年以降長らく東京都民の水瓶だった淀橋浄水場が昭和40年に東村山に移転したことによってできた跡地に建てられた。 

 昭和43年(1968)、最初に「京王プラザホテル」が建築され、高さ150m以上という超高層ビル群の建築ラッシュに先鞭をつけた。

 そして現在、西新宿には平成3年に有楽町から移転してきた高さ245mの東京都庁をはじめとする11棟の超高層ビルが林立し、鎮守の森は、コンクリートジャングルへと変貌した。




















































































 












    
 (西新宿秋景)
                                 

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