日本列島の成り立ちの歴史を物語るフォッサマグナ。その西縁を限り、日本海と太平洋を結ぶ大活断層、糸魚川静岡構造線沿いを走る越後糸魚川から信州松本までの120キロあまりの道は、いつの頃からか「塩の道」と呼ばれるようになった。
海側からは塩・魚、山側からは麻・たばこ・生薬・大豆などの生活必需品が運ばれた。
山国信州にとって塩は、とりわけ貴重な物資であった。
日本海に面してかつて砂丘の開けた糸魚川(いといがわ)では、古くから製塩が行われていた。この塩を歩荷(ボッカ)と呼ばれた人夫等が険しい山道を越え、遠く信州の村々へ運んだ。
これが「塩の道・千国街道」と呼ばれた所以らしい。
戦国時代、川中島の合戦で越後の上杉謙信が、甲斐の武田信玄に、牛馬の隊列を整えて塩を送った
『敵に塩を送る』 という美談で知られるのもこの街道であった。 |
街道の名前は、行く先に向かってつけられる。 この道も信州では糸魚川街道、越後では松本街道。真ん中の大町、白馬あたりでは千国(ちくに)に番所があったことから「千国街道」と呼ばれた。「塩の道」は数多くあったが、最も代表的な街道であった。
白馬から小谷(おたり)にかけての旧街道沿いには石仏や歴史的遺構が点在し、今も昔の面影を色濃く残している。
この旧街道は現在、国道147・148号線、そして鉄道ではJR大糸線がその役目をひきついでいる。
日本海からすぐに急坂となるこの道は、峻険な北アルプスや越後の山々に抱かれた風光明媚なところでもある。
その昔、きびしい道行の途中、一休みした歩荷たちはどんな思いでこの山々を見上げたのだろうか。
歩荷に思いを馳せながら「塩の道」沿いに、ひねもす秀麗な峰々の表情を眺めてみた風景。
山容は、今も昔と変わらぬ厳しさと美しさを誇っていた。
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